力の本質

殺虫剤入り中国製冷凍ギョーザ事件が

取りざたされてから、「食」に対しての

危機感が、意識的に感じられるところまで

浮上してきてしまい、もう無自覚に

与えられたものを食べていれば安心という

お子ちゃま感覚では安心して

生きていけなくなったことを

ひしひしと実感する今日このごろ・・・




改めて現実を見つめてみると

低レベルとはいえ、農薬を日々取り入れている体は

そのすべてを排出することはできずに、

少しずつ溜め込んで、それがいつか

おおきな病気への引き金になったりするのではないかと思う




身体というのは地球の象徴



地球が疲れれば身体も疲れる



環境問題で地球がこんなに疲弊しきっているのだから

身体も疲れていて当然だと思う



そこに農薬が降り注いだ野菜や

よくない環境で飼育された動物の肉

化学物質漬けの加工食品が

毎日毎日放り込まれ続け

身体はそれを必死に消化し

少しでも害のないように処理し

わずかな栄養を取り込み

私たちの意識を守るために

全力で生きていてくれる



私たちは身体も含めて人間だけれど

「頑張っています」という意識レベルの

人間の申告をはるかに超えて

人間を含め、生き物の体というのは

ほんとうに頑張ってくれている



そう思うと、ありがたくて涙が出てくる





体というのは、女性の象徴でもある



人間の意識で女性というとすぐに

女性という性質を帯びた肉体にいる

人格を含めて女性と考えてしまうけれど

男性もその肉体というのは象徴的には

女性性の現れなのだ




身体=地球=女性



いまの社会や世の中で起こっていることの

大枠は、女性性に対して

人間がいかに無知で残酷なエネルギーを

向けているかということの現れに

ほかならない気がする



女性性というのは、抑圧されて当然のもの・・という

思考回路が人間の潜在意識に根深く刻まれている



自分は女性だと思っている女性であっても

その部分では男性と何も変わらない



女性性を抑圧するのはいつも

男性性=コントロールし、支配しようとする力で、

それは女性であっても(いやむしろ、女性であればこそ)

強力に働いている



私は女性だ、と思って生きている人間でも

きっと、自分の本質的な女性性の部分を

経験して生きている人は、まずいないと思える

自分が本来持っている女性性の力を

深く恐れているから



私は男性だ、と思って生きている人間は

きっと、自分の女性性の部分を

受け入れきれずに、けれど身を焦がすように

追い求めながら、それを外側にいる

女性に託して要求する



でも、悲しいかな、男性に生まれているということは

女性性を女性の体で経験するほどには

しっかりと体感することはできない

だからどうしても、母性を投影するという

レベルでしか、女性性にたどり着けない



本来の女性性は

子どもを産むとか、育てるとか、

そういった原始的なレベルの理解では語りえない

人間にとって未知の領域にある何かを

持っている



そこには「力の本質」がある



未だ明かされず、使われていない女性性の

持つ力が、この先、地球の行方を左右していく

鍵になっていくように思えてならない



女性に生まれた女性が

どうやって自分の中の男性性の支配やコントロールから

自分自身を自由にしていけるか



言語や論理や既成概念

すでにこの世にあるものから

どうやって力を解き放って

自由へと還していくか



言葉で語りえぬものは

女性性でしか表現しえない



言葉は既知のものしか語り得ない


未だ名づけられない未知を人間が識るには

言語を介さずに本質に到達できる

女性性のエネルギーの解放が

どうしても必要なのだと思う