カン違いとケルトと指環と聖なるもの

メールシュトレームとメイストームを同じものだと勘違いしたまま、知ったフリして送ったメールで、

それは大渦と5月の嵐という、まるで別物を指す言葉だと気づかされ、
そこから、渦はケルト模様とつながりがあることを教えてもらい、
そうしてケルト模様の指環に出会い、身に着け、渦巻きと螺旋の意味や指環が示すもののことについてなど、図らずも考えることになり…


私は何もの?
ということについて、知ろう、考えようと思っても、はて、手掛かりがあるわけでなく、ともすると日常にまぎれて逃げ出す方へ、忘れる方へと脳は動く。


その忘れン坊の我が脳に「これ身に着けとけば、わすれないから…」と、どこぞの誰かが指示してくれたかのようにやって来たケルト模様の指環


それを身に着けたとき
指環が言葉もなく語りかけてきてくれたのは
何かとても聖なるもの
聖なる約束 という感覚

だから婚約や結婚に指輪が登場するんだろうか、と、ふと思う
その意図はすでに形骸化されているとしても…



そしてまたもや
[聖なるもの]への意識がうっすらと遠ざかりはじめて
日常を生きるマインドだけが時間を支配し始めた時


何気なく立ち読みに手にした池田晶子氏の本で
[聖なるものの行方]というコラムタイトルに出会う


全身の毛が一瞬にして逆立って
自分がどこにいるんだかわからなくなるような貧血感覚


本屋にいるのか
ケルトの風が吹く森にいるのか
アイルランドの平原なのか
金星とか木星なのか
アリになったのか
花になったのか


マインドがまったく予期していない無警戒な時
自分が置かれている何某か大きなものの座標を示されるのはとても怖い


武装マインドが己の小ささに気付くから…


だからマインドは
大いなるものが入ってこないように常に警戒してただ忙しい日常に魂を封印する


それでも
カン違いの記憶をすら使って
意識するべきなにものかに辿り着かせようとするのは
力なのか意図なのか


それはなにものの意図であり力なのか…?



[人類の精神史とは、謎を巡る我々の歴史である。宗教も科学も、そして宇宙それ自身も存在と無を巡り見ている精神の夢である。冷凍庫の中で脳は夢見る。それは問う、「私は誰か」「生とは何か」「我々は、いったい何をしているのだろうか」。]
〜『死とは何か』池田晶子